江戸風鈴の歴史




*歴史*

 起源は中国にありました。しかし日本とは全然違う使い方でした。
竹林に下げて風の向き、音の鳴り方で、物事の吉凶を占う占風鐸(せんふうたく)と言う道具が起源です。
日本に仏教などと一緒に渡来してきます。お寺の四隅にかかっている風鐸がそれです。
 風鐸のガランガランと鳴る音が厄除けとして使われました。
すなわち、その音が聞こえる範囲の住民には災いが起こらないといわれました。





 平安、鎌倉時代の貴族の間では縁側に下げて、外から疫病神が屋敷の中にはいるのを防いだと書物(六学集)には、書いてあります。
 法然上人絵巻には銅製の風鈴が描いてあります。形は今現在のものとは少し違います。

 ガラス製の風鈴が出始めるのが文献には享保年間(1700頃)とされています。
 長崎のガラス職人がガラスを見せ物として大阪、京都、江戸にて興行しながら伝わります。
 その頃の価格は今のお金に換算すると、200万〜300万円ぐらいしたと、いわれています。下記挿し絵がそれです。
享保年間





 なぜ、ガラスは高いのか。それは原料を作る技術がなかった、といえます。
 外国から輸入をするか、外国人のいる長崎でしか手に入らなかったため、高価だったとされています。
 江戸末期の学者たちがガラスの製造方法を書いた本がいろいろでましたがガラスにならない物もかなりありました。
 ガラスが安くなるのは、天保以後です。大正時代刊行の『風俗、、、』には、

「天保以前ビードロ高価なるをもってカラカネの風鈴をたくさん売る」、と記述があります。

 また違う方面からその事実を裏付けされています。

 それは、江戸のガラス屋の問屋である、上総屋留三郎が、長崎にガラスの研究にゆきます。
 その留三郎が江戸に帰ってくるのが、天保5年と書いてあります。
 おそらく、江戸に帰った後、留三郎はガラスの原料を作って卸を始めます。
 その原料を仕入れ、または職人が問屋から渡されガラス製品を作る。

幕末から明治にかけて「加賀屋」、「上総屋」の二大問屋が隆盛を誇るのです。

 「加賀屋」は理化学用のガラス製品を得意とし、一方の「上総屋」はビードロ風鈴、ビードロかんざしなどの嗜好品を得意としました。
 今現在も「加賀屋」の引き札(カタログ)が残っていますが、切り子製品、など立派なビードロ製品がありました。
 「上総屋」の引き札は現存せず、その当時の風鈴など詳しい資料がありません。「加賀屋」の引き札には2種類の風鈴があります。
 ただ、ガラス工場の関係の資料を見ますと、江戸の末期から明治にかけて「上総屋」の流れを汲む職人が沢山いました。




 高かったガラス製品が、安くなり、江戸風鈴が全盛期を迎えるのは、明治20年代です。
 明治24年刊行の『風俗画報』には、東京郊外の長家の軒下に、ガラス製の風鈴が下げてある挿し絵があります。
明治24年風俗画報


そして、文面には「一世を風靡」と書いてあります。そのような時代背景の中、初代又平が明治24年10月に生まれます。





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