第二回 生い立ちの記(学校編)





 大正13年、向島に生まれます。当時吾嬬町は東京府下南葛飾郡請地町字吾嬬西1の109と言っていました。
見渡す限りの田園地帯で、とてものどかなところでありました。


 子供の足で歩いて数分の所に日活の撮影所があり、時々オープンでロケーションをしていました。
池があり、金魚の養殖所があり、畑があり、牛馬の屠殺場があったりしました。


 私の上に女ばかり3人いて、4人目に生まれた男の子が私であります。
その後、弟が6人、妹が1人計11人の兄弟姉妹となります。
 昭和初期の我が家は、職人が6,7人いて2つの窯で24時間休み無く、交代でガラスをふくらましていました。
春から夏は風鈴、秋から冬にかけては酉の市の熊手につける銀玉作りと言う風に。
 父は外交が苦手な人で、工場に入ったままでした。
一方母は外交、風鈴、熊手の玉に金や銀の色つけなどをして一日中忙しく、子供の世話まで手が回らず、近所で大工の奥さんが面倒を見てくれていました。もちろん姉たちや長男である私もずいぶんと弟や、妹の世話をやかされました。


 小学校3年ごろ、習字の塾に通うようになります。
塾の帰り道、筆いっぱいに墨を含ませ、寄り道をしながら看板という看板にいたずら書きをしました。
そのせいか、2年ばかりで初段をとりました。


 高等小学校を卒業する頃になると、上の学校に行きたくて、両親に内緒で入学試験を受けました。
もちろん昼は仕事(ガラス吹き、注文取り、納品配達など)のため、勉強できるわけがなく、夜間の商業学校を受けるわけです。
 「職人には学問はいらない」と言う考えの父親からすれば、受験は私にとって大冒険でした。
 その当時の父親は本当に怖かったのです。


 合格通知が来て、両親の知る所となり、父の雷がすごい勢いで落ちる覚悟をいていました。
ところが、その父が入学式の日に紋付きの羽織袴で出席をしてくれる大変な親ばかぶりを見て、暖かいものを感じました。


 しかし本当に大変なのはこれからで、5時半から始まる授業に5時までみっちり仕事をし、空腹のまま自転車のペダルをこぐ毎日でした。
当時、跡継ぎは長男と決まっていて、家の中心として働きました。責任ある仕事が10代の私の肩に乗っていたのです。
少したつと、身長160cm体重30数kgの骨皮筋衛門(骨と皮と筋ばかりに痩せているという昔のたとえ)になりました。無理がたたり、体をこわすのですが、何とか卒業しました。


 その後、法政大学の夜間にも合格、通学しますが、一年もしないうちに、戦争により徴兵され、学問の道は閉ざされてしまいます。      第二回終わり



第三回へ続く
 


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